世界は考え方でどうにでもなる

社内SEからジョブチェンジし、コンサルタント見習いです。「人間を科学する」ことに興味があります。

教育ってなんだろうと考えよう

完全保存版!教育に関心があるなら必見のTED動画18選! | EdTech Media

 

 

これを見ました。日本語字幕あるからほとんど見ちゃった。

パトリック・アウアー「リーダーの教育」が特に感動したプレゼンでした。

「I am thinking now」

ジョブズの有名なスタンフォード大の卒業式のスピーチぐらい、ぐっと来ました。

考えることが、大事。パッションあふれるスピーチでした。

 

 

 自分は、皆が信念を持って突き進んでいる環境にいた方が合ってるんじゃないかって最近思います。

いや、俺はエリートだとか本当はできる奴なんだって言いたいんじゃなくて、今の日本のゆったりと楽しい雰囲気のままでいたら腐ってしまうんじゃないかなと。何かしたいと思っても、結局何もせずに終わってしまう気がします。

 

自分で自分を変えられない弱い意志だし、周囲に影響されやすいから、日本にいたら何もしない。行動しないと生きていけないぐらいの危機感がないと変われないと思います。

別に会社行って言われたことやって、たまに失敗して怒られて我慢すればまた元通りになって、ある程度給料振り込まれてーっていうサラリーマン人生が見えてる。30歳ぐらいで家庭もったりするのかもしれない。

 

だけど、そんなのつまらなすぎる!

絶対満足できない。

 

もっと見て回りたいし、体験したい。

世界の広さ、世界を知ることの面白さを知ってしまった。

 

行動しないと、だめだ。

だから、世界に飛び出して行きます。

 

東南アジア、いってきます。

 

 

教育全く関係なくなっちゃった。笑

リンク先のTEDで補完してください。

漫画「医龍 」の天才国立と凡人霧島の改革、伊集院の選択が人間としてあるべき姿勢ではないか

国立は才能を持っている天才だ。そして、霧島は才能がない人間だ。

 国立は、強くならねばならない、常に走り続けなければならないと考えている。20代で単身渡米しトップまで上り詰めた国立は、日本の大学病院でその姿勢を、競争原理を取り入れようとする。強制的に競争をさせるようにして、苦しんでいる患者のために、より多くの医者が救える技術を持てるように医療技術の底上げを図る。競争に負け、落ちこぼれた医者はその人自身が医者になるべきではなかったのだと切り捨てておしまい。そういう厳しい環境を作ろうとした。

 霧島は、弱くても良いじゃないかと、悩んだり、皆で傷をなめあって這いつくばって生きても良いじゃないかと言う。人間は本来弱い存在なんだからと。大多数の人間は大した才能もなく、何事も成せず人生を過ごす。それでいいじゃないか、何を無理に限界まで苦しい辛い思いをして生きなければならないのか。一部の天才だけ、頑張れる人だけ頑張って医療技術を高めてもらい、あとの人間は安定に安全にいこうと提案する。無駄にリスクをとることを回避し、医者も普通の人間としていることを求めている、と思う。

 互いにぶつかり合い発展を強要するものと、変化を恐れ現状維持しようとするもの。僕には、どちらの主張も、大きな流れが弱いものを飲み込もうとしているように見えた。

 そんな中、研修医の伊集院は、局外医でアウトサイダーの朝田の元を離れ、悩みながらも霧島に指導を願う。しかし、霧島の元で学びながらもこれでいいのかと不安や悩み、迷いはつきない。霧島の元では和を大事にしなければならない。手術中でもたとえ患者のためであっても相手の立場を考慮し、行動しなければならない。お互いに弱いもの同士なのだから、仲良くやっていこうという空気があると感じる。そんな雰囲気に伊集院は返って疲れてしまう。今まで自分のためだけにやってきたのに、相手のことも思いやって、というのは慣れていない。お互い何考えているか分からず、探り合うのも疲れるんだろう。伊集院自身も、人間関係に悩まされず技術の修得に集中できたら…とぼやいていたことがある。伊集院は朝田のチームで、難度の高い手術ばかりでストレスがかかり過ぎて、霧島の頑張らなくても良いじゃないかという姿勢に惹かれてしまった。しかし、霧島の元で学ぶうちに別のストレスがかかる。人間関係だ。霧島の回りの人間は、現状に満足してこれで良いと妥協してしまっている。技術の習得に熱心ではない。伊集院はその熱の差に違和感を覚える。そこで、伊集院は原点を振り返り、朝田のチームに戻る。

 

伊集院は霧島に最後に言う、「今の僕にとって、どこにいれば、患者のために全力で走れるかってことなんです。」

 

 そう、人はその時全力で走れる所にいるべきなんだ。医者であることを選択したなら、医者であるために、患者のためにそれぞれが自分の力を全力で尽くせる環境・尽くさなければならない環境にいるべきではないか。それを一人ひとり自分で考えて行動する。それは個人の技術の向上にもなるし、全体の質の向上にもなる。人の上に立つものは、誰がどこにいれば全力を尽くせるかを見極める目を持つ必要がある。そう思い通りにはいかないのが当たり前だろうけど。

 どこの誰であっても、成長したい、誰かの役に立ちたいと思っているなら、自分は誰のためならどこなら全力で走りたいと思うかということを、考えてみる必要があるんじゃないか。

 

僕自身、未だそういう情熱を傾けるものが分からないから本を読み、人に会い、旅に出て見つけようとしているわけだけど。

 

とりあえずは、今は内定もらった会社に情熱を向けたいと思っている。同期が、テキトーで良いや〜という人達であったとしても、自分のことだけを考える。

2013年の振り返りと2014年の目標〜未だ人生峠は超えず〜

2013年色々あったなー。これから脳内だだ漏れで書き連ねていく。就活、資格、手術、留学、恋愛、卒論。

 2012年末から就職活動初めて2013年は就職活動で始まった1年だった。始めたたばっかは自分勝手で人の意見をあまり聞かないで1人で上手くいくっしょっていう根拠の無い自信があった気がする。回りの人もそれに気付いててこいつめんどくさい奴って感じだったと思う。ESも上手い文章書くの苦手だから何百字も書かせる企業を理由づけて避けていた。とにかく何かと理由つけてやりたくないことから逃げていたと思う。

 有り難かったのは、サークルの同期で月1〜2回集まる会に呼んでくれたこと。こんな空気読めない自己中な奴に声かけてくれてびっくりだった。それに物知り顔して知ったかぶってる奴に。その会で、先輩や同期にあって皆ちゃんとやってるんだなー進んでるんだなーでも大したことない俺もやればできるとか勝手に自分の中で妄想してた。まあ、仲間がいた分1人でやるより全然まわり見れて自分のことも客観的に少しだけどその時は我に返ることができてた。あと、外部の就活支援団体にも誘ってくれたことにも今ではとても感謝しているのだけど、当時は全然伝えてないな、ちゃんと伝えよう。よしこれ今年の目標。

 

それで、就職活動とゼミ論やってふらふらセミナーみて面接いって考えたような考えてないような意見述べて選考ある程度進んじゃ落ちてーという繰り返しで、本当に人並みな就職活動だったな。

4月まで自分のちゃんと信じれる軸が定まってなくて人材会社の人事の方にとてもお世話になってなんとか内定1コもらって終えることができたっていうのが、去年の前半部。あ、でも高校の友人とよく連絡とって意識高めな講演会とか参加したり、本を教えあってたりしていた。あれのおかげで、世界に対して意識が向いた。就職活動始める前は日本出たくない英語使わない所で働きたいと後ろ向きだったのが、危機感芽生えて、世界でないと留学しないと!っていう行動に繋がって今もどんどん日本から出ないとって思ってる。

 まさに考え・価値観が180度変わったきっかけだ。あいつがいてよかった。まあでも今も価値観は少しずつ変わってきている。就活は色んな社会人と接したな。人事の人はほとんどの人は自分を持っていて、ちゃんと見てくれたように感じる。その上で祈られたんだと思う。色んな人に会って、色んな人の話を聞いて、就活によって様々な分野の人と繋がりを持つようになった。うっすーい繋がりだけど、なにかしら自分に影響を与えてくれている。

きっと関わった人の数だけ成長できるのではないだろうか。最近質より量っていう考えなんだよなー。量が多くなればそれが質に変わる瞬間があると思う。たくさんのことを経験することによって、質の高いものが出来上がる。たくさんのものを見れば目が肥えるし。質より量、そう思い始めている。

 

 大学は就職活動でサークル行ってなくて体がなまると思って、弓道、ストレッチング、サッカー、ゴルフとか一度やってみたかったスポーツも入れながら授業受けてた。でも夏前になるとどうしようもなく自分の中で活気が薄れていってた。決まりきった日常に飽き飽きしていたと思う。

そんな時、就活の時一緒に講演等聞きに行ってた友人から留学しようと話を持ちかけられて、その話に飛びついた。これだ!と思った。日々の単調な繰り返し、将来が見えない不安、内定もらって自分が固定されてしまったような窮屈さ、そんな鎖が自分を縛っているように感じていた。それに恋愛も当時は行き詰まっていたし。どこかそんな縛りを全部無くせるような所を求めていた、それが留学だったと思う。しばらくして話を持ちかけた友人が一緒に行けなくなってもむしろ好都合だとさえ感じた。一度誰も知らない場所に1人飛び込んで何の縛りもなく生きてみようと思っていたから。

 そう考えると、自分はずっと自分の気持ちを隠して生きてきたんだなと思った。嫌われるのが怖いから糞な自分をだせないんだ。取り繕ってしまう。それは悪い癖だ。どうすればいいんだ。まあ、あとで考えよう。

とにかく留学は人生で一番エキサイティングな時だった。手続きもパスポート取得から現地でも生活も自分1人で全てこなした。何者にも縛られない分全部自分でやらないといけないのは、やりがいがあった?という感じだ。あ、留学の2週間前に手術してそれも大変だった。。あれはもう二度と経験したくない。本当に点滴の鈍い継続的な痛さに発狂しそうだったし、膝も術後は一睡もできないくらいの激痛だったし。あーつらかった。フットサルもう2度とできなくなっちゃったな…。これはほんと悔しい。まだまだこれからだっていうのに膝が亜脱臼になってしまって全速力でも走れない。もうスポーツは完全に無理。これはショックだ。これからどうしようかなぁ。

 それはさておき、夏はとにかく盛りだくさんだった。好きだった人と旅行行ったし(以前の日記参照されたし)宅建の勉強したし(これは結構やりがいがあった。やればやるほど結果は出るし模擬試験で20点中19点とったときはとても嬉しくモチベも上がった)、手術もあった、そして留学。大学生活1→2→3→4年といくにつれて世界も広がって、楽しいこと辛いことも更新され続けている。去年よりは今年は良かった、楽しかった、成長できたと思えた。2013年もそんな年だったなあ。あー色々あった。充実していたなあ。

 最後に、彼女ができたことも付け加えなければ。留学中に出会った女の子だけど、別に好きではないけど、付き合ってる。こんな自分はくそだと思うけど、いいんだ。認めてしまおう。それで嫌われたらそれまでの関係だっただけだ。なんていうんだろう付き合った理由は告白されたからこんな自分でも好きと言ってくれるから。断る理由がなかった。自分には好きだった人はいたけど今は叶わぬ恋だし、まあ一生の仲間として付き合ってこうと決めたわけだし。しかし、彼女はいわゆる構ってちゃんで面倒な女だ。すぐ不安になって何考えてるのと言い、将来が不安だとか本当に好きなのとか言う。

重い、んだな彼女の思いが。彼女は僕にすべてを委ねようとしてくるがそんなのは勘弁してもらいたい。まあ互いの思いの擦り合わせが今は大変だけど、これが成長に繋がると信じて今はやっていく。自分を持って嫌われても譲らない姿勢を覚悟を決めよう。

 

そんな波瀾万丈は去年でした。こんなこと知り合いに赤裸裸に語れなくなってしまった辺り、自分は壁が多い人間なんだなと再認識してしまう。自分を曝け出すことができない弱い人間のままだ。

卒論は大変だけど、なんとか終わらせよう。

 

去年の結果を踏まえ、色々な出来事があったが、まだ自分の中に壊れていない壁があると自覚している。英語という壁は壊れた。しかし、嫌われることに対する壁はある。自由になれていない。それを考え、

2014年の目標は、心構えとして、「嫌われたり怒鳴られたり見捨てられたりするかもしれなくても、泣いたり恥ずかしくなったりしても、自分の素直な心を曝け出す努力をする」ということにします。

 

映画「パッチ・アダムス」のラスト15分は名言の宝庫

ラスト15分は名言の宝庫だ。

「訪れる者は患者です。でも同時に医者です」

「What's wrong with death, sir?(死が悪いので?)」

「死に人間性と尊厳とユーモアを与えては?」

「A doctor's mission should be not to prevent from death but also to improve quality of

life!(死を遠ざけるのではなく、生を高めるのが医者の務め)」

「死は敵ではありません。病気と戦う場での一番の敵は“無関心”です」

「人間が相手なら結果はどうあれ医者が勝つのです」

「生命の奇跡に無感覚にならぬように」

「医者になる前に人間に!」

「他人や友達 電話の相手 人と対話する能力を!」

「毎日患者の血と尿にまみれている看護婦は得がたい教師だ」

「ハートが死んでない教師を手本に」

「I wanna be a doctor with all my heart.(私は医者になりたいのです)」

「あなた方は卒業を阻み私から免許と白衣を奪える でも学ぼうとする魂を抑え込むことはできません」

 

ロビン・ウィリアムズはシリアスもコメディもこなせる最高の俳優だ。「パッチ・アダムス」は「グッドウィルハンティング」とともに観たい映画。

 

『原発を正しく怖がりましょう:日経ビジネスオンライン』そもそも放射線とは?原子力発電所は危険なのか

 原発についてのまとめを途中のままにしていたんだけれど、分かりやすい記事見つけたから、その記事をここに貼り付けて、未完成だけど出してしまうことにした。

放射線を正しく怖がりましょう:日経ビジネスオンライン

(欧米人の話は、日本人より全然分かりやすいと思う。やっぱり言語の特質なのかな…)

 

 人は放射能に対して本能的な恐怖を持っている。それは目に見えない故の恐怖であり、本来は、身を隠して待ち伏せしている捕食動物に対して感じる恐怖と同じものかもしれない。他の例としては、魔女、病原菌、共産主義者、ベッド下の怪物などがある。 しかし、放射能は、目に見えないだけでなく、攻撃されてもなお見えないのだからさらに厄介だ。

 「放射能」とは、いわば原子核の爆発だ。原子核とは、原子の質量とエネルギーのほとんどを包含する中心のごく小さな部分のことだ。核分裂するときのエネルギーは、TNT(トリニトロトルエン - Wikipedia)の2億倍にもなると言われている。

 「放射線」とは、原子核が爆発する時に飛び散る破片のことです。手榴弾と同じようにダメージを与えるのは破片のなのです。放射線とは、いわば榴散弾であり、残骸であり、弾丸です。こうした破片は、凄まじいスピードで飛び散り、時には亜光速や光速に達することもあります。そして、あなたの体を貫き、体を構成する分子を引き裂いてしまうのです。その結果死滅する細胞が多ければ、即死することもあります。もしダメージのレベルがそれほどではなかったとしても、がんを誘発する危険性がまだ残っています。(引用:「今この世界を生きているあなたのためのサイエンス」)

 

 つまり、「放射線」 とは汚染されるようなものではなく、目に見えない細胞単位でのダメージなのだ。目に見えない程小さな弾丸が、光速で体を貫いているということだ。転んでできた擦り傷などと同様で、一旦放射能にさらされても一定量以下ならば安静にすれば自然に治癒される。

  被爆量は「レム」という単位が使われる。100レム以下なら全く症状が現れない。そして、体に変調をきたすことなく自己修復されるだろう。200レム浴びれば、病気になるだろう。病名は「放射能中毒」または「放射線症」だ。ほとんどの髪の毛が抜け落ち、吐き気やだるさを感じるだろう。その理由は、体の広範囲にダメージを受けると、その修復のために体に大きな負担がかかるため、エネルギーを大量消費する消化器官など他の活動が抑えられるのである。

 200レムを超えると死亡する危険性が出てくる。300レムになると、集中治療などを受けない限り、死亡する確率は50%に達する。そのため、300レムの被爆線量は、LD50(50%致死量)と呼ばれる。1000レムになれば、助かる見込みはほとんどない

。  では、1レムという量は、どれくらいの放射線なのか。ガンマ線について考えてみる。ガンマ線は、貫通力が極めて高く、原発事故などで人を死に至らしめる主たる原因になる。

 ガンマ線は、極めてエネルギーの大きなX線(電磁波)と考えても良いだろう。電磁波は, 特にその波長によって物体との相互作用が異なる。そこで、波長帯ごとに電磁波は違う呼び方をされることがある。すなわち, 波長の長い方から、電波・赤外線・可視光線・紫外線・X線・ガンマ線などと呼ばれる。我々の目で見えるのは可視光線のみだが、その範囲 (波長0.4 μm - 0.7 μm) は電磁波の中でも極めて狭い。

〜中略〜

  電磁波は波長によって様々な特徴をもつ。最も波長の長い電波は、進行方向に多少の障害物があっても進行することができる。このため、通信や放送などの長距離の情報送信に使用されることが多い。テレビやラジオ、携帯電話などが代表的である。電波よりも波長の短い光は、物質に吸収されて化学反応や発熱などの相互作用を生じることがある。この現象は眼が見える理由でもあるが、他に植物の光合成やリソグラフィーなどが該当する。さらに波長が短いX線になると、物質との相互作用が減少し、透過するようになる。この現象を利用することで、レントゲン写真やX線CTを撮影することができる。 (引用:電磁波 - Wikipedia

 

 1レムの放射線を吸収するには、およそ10兆のガンマ線に曝されなければならない。考えられない数字だが、チェルノブイリの消防士一人当たりが浴びたガンマ線は、その数百倍の1000兆以上だった。そのために、消防士たちは死亡したのだ。 「チェルノブイリ原発事故は、住民3万人が平均45レムを被爆し、事故による住民のガン死は約500人である。」 しかし、ストレスや喫煙、飲酒による自然の原因によるガン死は20%と言われている。そして、45レム被爆した場合の発ガンリスク1.8%である。1.8%のリスクの上昇のために避難すべきかどうか、難しい判断だと思う。

  原子力発電所の話に移る。

・核爆弾は核連鎖反応を「一気に」起こす、原子炉は核連鎖反応を「持続的に」起こす

原爆には核分裂反応を倍増させる高純度なウラン235が必要。原子炉では反応速度が加速しない天然ウラン238を使っている。

・多くの人が原子炉は「原爆のように爆発しうる」と考えているが、それはあり得ない。

 これは、物理学に基づいたものであり、専門家でこれに異議を唱えるものはいない。原子炉には、他の危険性がいくつかあるが原爆のように爆発する危険は含まれていない。  

 

最後は尻すぼみになってしまったが、とりあえず公表しておこう。