世界は考え方でどうにでもなる

社内SEからジョブチェンジし、コンサルタント見習いです。「人間を科学する」ことに興味があります。

2013年の振り返りと2014年の目標〜未だ人生峠は超えず〜

2013年色々あったなー。これから脳内だだ漏れで書き連ねていく。就活、資格、手術、留学、恋愛、卒論。

 2012年末から就職活動初めて2013年は就職活動で始まった1年だった。始めたたばっかは自分勝手で人の意見をあまり聞かないで1人で上手くいくっしょっていう根拠の無い自信があった気がする。回りの人もそれに気付いててこいつめんどくさい奴って感じだったと思う。ESも上手い文章書くの苦手だから何百字も書かせる企業を理由づけて避けていた。とにかく何かと理由つけてやりたくないことから逃げていたと思う。

 有り難かったのは、サークルの同期で月1〜2回集まる会に呼んでくれたこと。こんな空気読めない自己中な奴に声かけてくれてびっくりだった。それに物知り顔して知ったかぶってる奴に。その会で、先輩や同期にあって皆ちゃんとやってるんだなー進んでるんだなーでも大したことない俺もやればできるとか勝手に自分の中で妄想してた。まあ、仲間がいた分1人でやるより全然まわり見れて自分のことも客観的に少しだけどその時は我に返ることができてた。あと、外部の就活支援団体にも誘ってくれたことにも今ではとても感謝しているのだけど、当時は全然伝えてないな、ちゃんと伝えよう。よしこれ今年の目標。

 

それで、就職活動とゼミ論やってふらふらセミナーみて面接いって考えたような考えてないような意見述べて選考ある程度進んじゃ落ちてーという繰り返しで、本当に人並みな就職活動だったな。

4月まで自分のちゃんと信じれる軸が定まってなくて人材会社の人事の方にとてもお世話になってなんとか内定1コもらって終えることができたっていうのが、去年の前半部。あ、でも高校の友人とよく連絡とって意識高めな講演会とか参加したり、本を教えあってたりしていた。あれのおかげで、世界に対して意識が向いた。就職活動始める前は日本出たくない英語使わない所で働きたいと後ろ向きだったのが、危機感芽生えて、世界でないと留学しないと!っていう行動に繋がって今もどんどん日本から出ないとって思ってる。

 まさに考え・価値観が180度変わったきっかけだ。あいつがいてよかった。まあでも今も価値観は少しずつ変わってきている。就活は色んな社会人と接したな。人事の人はほとんどの人は自分を持っていて、ちゃんと見てくれたように感じる。その上で祈られたんだと思う。色んな人に会って、色んな人の話を聞いて、就活によって様々な分野の人と繋がりを持つようになった。うっすーい繋がりだけど、なにかしら自分に影響を与えてくれている。

きっと関わった人の数だけ成長できるのではないだろうか。最近質より量っていう考えなんだよなー。量が多くなればそれが質に変わる瞬間があると思う。たくさんのことを経験することによって、質の高いものが出来上がる。たくさんのものを見れば目が肥えるし。質より量、そう思い始めている。

 

 大学は就職活動でサークル行ってなくて体がなまると思って、弓道、ストレッチング、サッカー、ゴルフとか一度やってみたかったスポーツも入れながら授業受けてた。でも夏前になるとどうしようもなく自分の中で活気が薄れていってた。決まりきった日常に飽き飽きしていたと思う。

そんな時、就活の時一緒に講演等聞きに行ってた友人から留学しようと話を持ちかけられて、その話に飛びついた。これだ!と思った。日々の単調な繰り返し、将来が見えない不安、内定もらって自分が固定されてしまったような窮屈さ、そんな鎖が自分を縛っているように感じていた。それに恋愛も当時は行き詰まっていたし。どこかそんな縛りを全部無くせるような所を求めていた、それが留学だったと思う。しばらくして話を持ちかけた友人が一緒に行けなくなってもむしろ好都合だとさえ感じた。一度誰も知らない場所に1人飛び込んで何の縛りもなく生きてみようと思っていたから。

 そう考えると、自分はずっと自分の気持ちを隠して生きてきたんだなと思った。嫌われるのが怖いから糞な自分をだせないんだ。取り繕ってしまう。それは悪い癖だ。どうすればいいんだ。まあ、あとで考えよう。

とにかく留学は人生で一番エキサイティングな時だった。手続きもパスポート取得から現地でも生活も自分1人で全てこなした。何者にも縛られない分全部自分でやらないといけないのは、やりがいがあった?という感じだ。あ、留学の2週間前に手術してそれも大変だった。。あれはもう二度と経験したくない。本当に点滴の鈍い継続的な痛さに発狂しそうだったし、膝も術後は一睡もできないくらいの激痛だったし。あーつらかった。フットサルもう2度とできなくなっちゃったな…。これはほんと悔しい。まだまだこれからだっていうのに膝が亜脱臼になってしまって全速力でも走れない。もうスポーツは完全に無理。これはショックだ。これからどうしようかなぁ。

 それはさておき、夏はとにかく盛りだくさんだった。好きだった人と旅行行ったし(以前の日記参照されたし)宅建の勉強したし(これは結構やりがいがあった。やればやるほど結果は出るし模擬試験で20点中19点とったときはとても嬉しくモチベも上がった)、手術もあった、そして留学。大学生活1→2→3→4年といくにつれて世界も広がって、楽しいこと辛いことも更新され続けている。去年よりは今年は良かった、楽しかった、成長できたと思えた。2013年もそんな年だったなあ。あー色々あった。充実していたなあ。

 最後に、彼女ができたことも付け加えなければ。留学中に出会った女の子だけど、別に好きではないけど、付き合ってる。こんな自分はくそだと思うけど、いいんだ。認めてしまおう。それで嫌われたらそれまでの関係だっただけだ。なんていうんだろう付き合った理由は告白されたからこんな自分でも好きと言ってくれるから。断る理由がなかった。自分には好きだった人はいたけど今は叶わぬ恋だし、まあ一生の仲間として付き合ってこうと決めたわけだし。しかし、彼女はいわゆる構ってちゃんで面倒な女だ。すぐ不安になって何考えてるのと言い、将来が不安だとか本当に好きなのとか言う。

重い、んだな彼女の思いが。彼女は僕にすべてを委ねようとしてくるがそんなのは勘弁してもらいたい。まあ互いの思いの擦り合わせが今は大変だけど、これが成長に繋がると信じて今はやっていく。自分を持って嫌われても譲らない姿勢を覚悟を決めよう。

 

そんな波瀾万丈は去年でした。こんなこと知り合いに赤裸裸に語れなくなってしまった辺り、自分は壁が多い人間なんだなと再認識してしまう。自分を曝け出すことができない弱い人間のままだ。

卒論は大変だけど、なんとか終わらせよう。

 

去年の結果を踏まえ、色々な出来事があったが、まだ自分の中に壊れていない壁があると自覚している。英語という壁は壊れた。しかし、嫌われることに対する壁はある。自由になれていない。それを考え、

2014年の目標は、心構えとして、「嫌われたり怒鳴られたり見捨てられたりするかもしれなくても、泣いたり恥ずかしくなったりしても、自分の素直な心を曝け出す努力をする」ということにします。

 

映画「パッチ・アダムス」のラスト15分は名言の宝庫

ラスト15分は名言の宝庫だ。

「訪れる者は患者です。でも同時に医者です」

「What's wrong with death, sir?(死が悪いので?)」

「死に人間性と尊厳とユーモアを与えては?」

「A doctor's mission should be not to prevent from death but also to improve quality of

life!(死を遠ざけるのではなく、生を高めるのが医者の務め)」

「死は敵ではありません。病気と戦う場での一番の敵は“無関心”です」

「人間が相手なら結果はどうあれ医者が勝つのです」

「生命の奇跡に無感覚にならぬように」

「医者になる前に人間に!」

「他人や友達 電話の相手 人と対話する能力を!」

「毎日患者の血と尿にまみれている看護婦は得がたい教師だ」

「ハートが死んでない教師を手本に」

「I wanna be a doctor with all my heart.(私は医者になりたいのです)」

「あなた方は卒業を阻み私から免許と白衣を奪える でも学ぼうとする魂を抑え込むことはできません」

 

ロビン・ウィリアムズはシリアスもコメディもこなせる最高の俳優だ。「パッチ・アダムス」は「グッドウィルハンティング」とともに観たい映画。

 

『原発を正しく怖がりましょう:日経ビジネスオンライン』そもそも放射線とは?原子力発電所は危険なのか

 原発についてのまとめを途中のままにしていたんだけれど、分かりやすい記事見つけたから、その記事をここに貼り付けて、未完成だけど出してしまうことにした。

放射線を正しく怖がりましょう:日経ビジネスオンライン

(欧米人の話は、日本人より全然分かりやすいと思う。やっぱり言語の特質なのかな…)

 

 人は放射能に対して本能的な恐怖を持っている。それは目に見えない故の恐怖であり、本来は、身を隠して待ち伏せしている捕食動物に対して感じる恐怖と同じものかもしれない。他の例としては、魔女、病原菌、共産主義者、ベッド下の怪物などがある。 しかし、放射能は、目に見えないだけでなく、攻撃されてもなお見えないのだからさらに厄介だ。

 「放射能」とは、いわば原子核の爆発だ。原子核とは、原子の質量とエネルギーのほとんどを包含する中心のごく小さな部分のことだ。核分裂するときのエネルギーは、TNT(トリニトロトルエン - Wikipedia)の2億倍にもなると言われている。

 「放射線」とは、原子核が爆発する時に飛び散る破片のことです。手榴弾と同じようにダメージを与えるのは破片のなのです。放射線とは、いわば榴散弾であり、残骸であり、弾丸です。こうした破片は、凄まじいスピードで飛び散り、時には亜光速や光速に達することもあります。そして、あなたの体を貫き、体を構成する分子を引き裂いてしまうのです。その結果死滅する細胞が多ければ、即死することもあります。もしダメージのレベルがそれほどではなかったとしても、がんを誘発する危険性がまだ残っています。(引用:「今この世界を生きているあなたのためのサイエンス」)

 

 つまり、「放射線」 とは汚染されるようなものではなく、目に見えない細胞単位でのダメージなのだ。目に見えない程小さな弾丸が、光速で体を貫いているということだ。転んでできた擦り傷などと同様で、一旦放射能にさらされても一定量以下ならば安静にすれば自然に治癒される。

  被爆量は「レム」という単位が使われる。100レム以下なら全く症状が現れない。そして、体に変調をきたすことなく自己修復されるだろう。200レム浴びれば、病気になるだろう。病名は「放射能中毒」または「放射線症」だ。ほとんどの髪の毛が抜け落ち、吐き気やだるさを感じるだろう。その理由は、体の広範囲にダメージを受けると、その修復のために体に大きな負担がかかるため、エネルギーを大量消費する消化器官など他の活動が抑えられるのである。

 200レムを超えると死亡する危険性が出てくる。300レムになると、集中治療などを受けない限り、死亡する確率は50%に達する。そのため、300レムの被爆線量は、LD50(50%致死量)と呼ばれる。1000レムになれば、助かる見込みはほとんどない

。  では、1レムという量は、どれくらいの放射線なのか。ガンマ線について考えてみる。ガンマ線は、貫通力が極めて高く、原発事故などで人を死に至らしめる主たる原因になる。

 ガンマ線は、極めてエネルギーの大きなX線(電磁波)と考えても良いだろう。電磁波は, 特にその波長によって物体との相互作用が異なる。そこで、波長帯ごとに電磁波は違う呼び方をされることがある。すなわち, 波長の長い方から、電波・赤外線・可視光線・紫外線・X線・ガンマ線などと呼ばれる。我々の目で見えるのは可視光線のみだが、その範囲 (波長0.4 μm - 0.7 μm) は電磁波の中でも極めて狭い。

〜中略〜

  電磁波は波長によって様々な特徴をもつ。最も波長の長い電波は、進行方向に多少の障害物があっても進行することができる。このため、通信や放送などの長距離の情報送信に使用されることが多い。テレビやラジオ、携帯電話などが代表的である。電波よりも波長の短い光は、物質に吸収されて化学反応や発熱などの相互作用を生じることがある。この現象は眼が見える理由でもあるが、他に植物の光合成やリソグラフィーなどが該当する。さらに波長が短いX線になると、物質との相互作用が減少し、透過するようになる。この現象を利用することで、レントゲン写真やX線CTを撮影することができる。 (引用:電磁波 - Wikipedia

 

 1レムの放射線を吸収するには、およそ10兆のガンマ線に曝されなければならない。考えられない数字だが、チェルノブイリの消防士一人当たりが浴びたガンマ線は、その数百倍の1000兆以上だった。そのために、消防士たちは死亡したのだ。 「チェルノブイリ原発事故は、住民3万人が平均45レムを被爆し、事故による住民のガン死は約500人である。」 しかし、ストレスや喫煙、飲酒による自然の原因によるガン死は20%と言われている。そして、45レム被爆した場合の発ガンリスク1.8%である。1.8%のリスクの上昇のために避難すべきかどうか、難しい判断だと思う。

  原子力発電所の話に移る。

・核爆弾は核連鎖反応を「一気に」起こす、原子炉は核連鎖反応を「持続的に」起こす

原爆には核分裂反応を倍増させる高純度なウラン235が必要。原子炉では反応速度が加速しない天然ウラン238を使っている。

・多くの人が原子炉は「原爆のように爆発しうる」と考えているが、それはあり得ない。

 これは、物理学に基づいたものであり、専門家でこれに異議を唱えるものはいない。原子炉には、他の危険性がいくつかあるが原爆のように爆発する危険は含まれていない。  

 

最後は尻すぼみになってしまったが、とりあえず公表しておこう。

 

本田圭佑選手から学ぶ有言実行の本質

 有言実行と言うか、世界に公表したことを達成してないとストレスが自分にかかるんだ。そして、自分でもそれを達成したいと思っているから、それは悪いストレスのかかり方ではない。また、それは自分の最も好きなことでもある。そして、想像するんだ。今のこの達成していない、周りから良くは思われてない状態から、達成したときの自分の誇らしさ、周囲の自分を見る目が変わる瞬間を。

 そう、最後に達成さえすれば、それまでいかに酷く失敗し迷惑をかけても、全て達成のためのプロセスになる。あいつは失敗して終わった、ただの口だけ男だった、という結果にはならないんだ。だから何度でも挑戦するし(好きなことだから)、しなければならない(周囲からの「お前言ったからにはなんとかしろよ」というプレッシャーを感じるから(実際には周囲は思ってないかもしれないけど))。

 最終的に、有言実行になる、ということなのかもしれない。

 

 ここで大事なのは、その過程をずっと見て応援or指導してくれている人がいるかどうかだと僕は思っている。やはり人が一番真に力を発揮できるときは、誰かのためにするときじゃないだろうか。自分に元気を与えてくれた、指導して力をつけてくれた、プレッシャーをかけて危機感を与えてくれた人達に、その価値があったことを証明しないと、彼らに顔向けできない。自分が自分を恥ずかしく思う。それには耐えられない。それなら死んだ方がましだ。彼らは彼らの時間を自分に使ってくれている。自分は、その彼らの分まで活躍しないといけない。そう思えるんじゃないか。
 そう考えたら、試合中でも、世界中の人が注目していることよりも、その彼らが自分を見て満足しているかどうかが気になると思う。そこには、大舞台で緊張して舞い上がってしまったなんて言い訳は許されない。自分が許さない。とにかく結果を出すんだという意識しか残されない。そこには焦りも緊張もない。彼らの信頼に応えたいと言う体の内側から突き動かされる気持ちのみだ。その彼ら以外誰がなんと言おうと、自分にとって大きな問題ではない。例えPKを外して日本中からため息が漏れようとも、信頼している人からの的確で前向きな言葉さえあればまた蹴る勇気が湧いてくる。その言葉を信じたことが、正しかったことを証明するためにも、蹴り続けなければいけないと感じるかもしれない。

 

 まとめると、有言実行とは、自分の分野において、達成したいこと(夢)を公言することで(有言)、自分に良い負荷をかけ成長を否応無しに促し、達成すること(実行)。

 以上を自分に活かすには、どうすれば良いだろうか。

 まず、自分が人生をかけて、達成したい最も好きなことを見つけた方が良い。なぜなら、その方が苦しくてもより頑張れるからだ。僕は膝の靭帯が使い物にならないから、運動系はムリだ。頭を使う何かを探そう。

 次に、達成したいこと(夢)を公言することだ。世の中に実現不可能なことはない。本当にやりたいことならタイムマシンだって作れるだろう。夢を考えよう。根拠はないが、これはすぐ見つかりそうな気がする。そして、公言だが、これはフェイスブックか、または現実世界の最も人が多い場で言うべきだろう。聞く人が多ければ多いほど効果は増大するのだから。

 最後に実行の過程だが、負荷のかけ方が重要だと思う。自分に足りないものを知り、どのように足りないものを埋めて伸ばすか。ここには先人の知恵がいるのではないか。「自分には達成したいものがあるんですが、何をどうすれば良いか」というのを聞いてしまえば良い。何でも自分の頭で解決しようとするのは良くない。様々なものを取り入れ、自分にとって最も効率のいい方法を探れば良い。

 個人的な意見だけど、先輩の同業者に見てもらうのはあまりよくないと思う。先輩も戦っているわけで、競争相手だ。自らの秘密の特訓というようなものを教えてはくれないと思う。また次第に自分が成長していったとき、最後までいざというとき応援・指導してくれる余裕や力があるかは不安だ。だから、応援してくれる人は全く別の分野の人、指導はすでに引退した人、プレッシャーをかけてくれる人は有言したことに共感したファンというふうに僕は分けたい。

 あとは、発表の場で成長を彼らに見てもらい、自分の成長を感じ、足りない所を修正するということを繰り返せばいいのだろう。そのあとは達成するか、致命的な何かで社会的に死ぬかのどちらかだろう。

 

 

ACミランに移籍が決まったことを機に、本田圭佑選手の長文インタビュー記事について思うこと。(僕は彼の哲学に影響を受けている)

 本田圭佑選手のACミラン移籍で、彼の哲学についてふと思い返し、これを多くの人に読んでもらいたくて、この記事を書く。

 

「今の日本についてどう思うか?」という問いに対する、本田圭佑選手の答え。
 彼の考えに一番影響されたと言っても過言ではない。

 あなたは、一日本国民として、今の日本をどうしたいか、真剣に考えたことがあるか?

本田圭佑のメッセージ
http://www.nikkansports.com/m/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20120914-1016306_m.html

 今、この状況だからこそ伝えるべきことがある。

 東日本大震災から混迷を極め、閉塞(へいそく)感が漂う日本よ、オレはこう思う─。

 日本代表MF本田圭佑(26=CSKAモスクワ)が愛する「日本」そのものについて語った。


 ロシア・モスクワに滞在中の9月上旬、所属するCSKAモスクワ練習場の取材エリアで日刊スポーツに激白。移籍や間近に迫ったW杯最終予選についてかたくなに「しゃべりたくない」と言っていたが「今の日本をどう思うか?」という質問に反応。車のエンジンを止め、せきを切ったように話し始めた。【取材=八反誠】

 

 海外に出たら、日本は本当にいい国だとあらためて思う。モノのクオリティー、サービス業、すべてにおいてディテールにこだわっている。ここが、何につけてもアバウトな外国とは違う。これはオレの価値観が日本人寄りだから、という理由ではないと思う。外国人だって日本のサービスを受けたら絶対にいい思いをするはず。その点で、日本は世界トップだと認識している。海外に出てから、感じるようになった。

 

 それと同時に思うのは「これを築いたのは誰なんだ?」ということ。オレたちではない。こんな裕福な今日(こんにち)の日本があるのは、先代の人たちの頑張りのおかげだと思っている。オレたちは、彼らが頑張って汗水たらして残していってくれたもののおかげで生活できていると思う。 それが今、いろんな面でまさしく危機を迎えている。オレが言うまでもなく、いろんな人が「日本はそのうち破綻する」と言うのが聞こえてくる。「なんでそうなったのか?」ということを考えないと。今のオレたちは何も築いていない。先人の財産を使ってきただけ。感謝して、今からもう1度、頑張らないといけないんじゃないか。それなのに浪費した揚げ句、責任のなすり合いが、どの場面どの分野でも繰り広げられているように見える。海外から見ると、より一層、強くそう感じる。

 

 なんでここまで言うのか?オレは愛国心というのか、そういう気持ちが強い。例えば、いい悪いは別にして、この間のオリンピックの竹島の問題がある。韓国の選手が試合後にボードを持った。いい悪いは別として客観的に見たら、彼は韓国を愛しているんだな、と思った。オレは日本を愛している。もしかしたら同じような状況になれば、同じように行動したかもしれない。それはその場になってみないと分からないことだけど。

 勝ち負けという観点からすると、韓国人が韓国を愛する気持ちに、日本人は負けているんじゃないか。これは政治的な問題ではない。単に自分の国を愛しているか?という気持ちをくらべると、日本は韓国よりも劣ってるんじゃないか、という気持ちにさせられた。

 

 政治といえば、日本に帰った時、国会中継をよく見る。見ていると、話がまったく進まない。「まぁ~、進まない」という感じで「一体誰が進めるの?」そう思って見ていた。リーダーがいない。そろそろオレたちの世代が、本物が評価される時代をちゃんと作り出すべきだと思う。本物の定義・哲学を若い人たちがそれぞれ持っていないといけないと思う。本物を選ぶその物差しを、ちゃんと形成していかなければいけないんじゃないか。

 オレがいう本物とは政治家のことであったりする。彼らは税金から給料を得ているわけだし、本物であるべきだと思う。日本でのヒーローはアイドルやバラエティー番組のタレントという形になっているけど、そういうアイドル文化は日本、厳密にいうとアジア圏くらい。オレが言いたいのは、日本では、日本の政治家こそがスターであるべきだってこと。別にアイドルやタレントを悪くいうつもりはない。彼、彼女たちは、それぞれの立場で一生懸命頑張っている。最大の問題は支持する側にあると思う。イベントなどでワイワイ、キャーキャーと楽しむのは構わないけど、そうやって楽しい空気を享受できる平和というものをはき違えてはいけない。今のこの状態は「平和」というより「平和ぼけ」なんじゃないか、と思う。オレの価値観では、平和というものは自分たちの手でつかみ取るもの。本物とは何かということに対してもっと真剣に考え、議論する必要があるんじゃないか。

 

 本物について、海外でこんな経験をした。海外では1度応援し始めた人を、最後までしっかり応援する文化がある。サッカーでも同じ。いい時はまつりあげて、少しでもだめになったら捨てるように扱うのは日本だけ。オランダで、あるチームに実績十分のベテラン選手がいた。ただ、その選手は開幕からしばらくパフォーマンスが物足りなかった。日本だったら「もうあの選手は終わった」と言われたりする。でも、オランダの監督やコーチたちの声は違った。その時、聞こえてきたのは「いい選手であることに疑いはない」という言葉。すごく冷静な分析だったと思う。マスコミも「技術のある選手が明日(技術が)なくなることはない」と伝えていた。サッカーの本質を突いていると思った。マスコミも、監督や選手も「君たちはあの選手がどれだけ貢献してきたか忘れたのか?」という論調。これこそ、本物だと思った。

 

 日本は芸能人であったり影響力のある人でも、政治家でなければ、政治のことをしゃべるとたたかれる。「なんで?」と思う。オレが政治についてしゃべったら「本田、スポーツ選手のくせに政治を語るな」と、たたかれるはず。多分、世の中の大多数がそう思うはず。でも、そうではないんじゃないか。オレも日本国民。政治のことを語る資格があるはず。日本をこうしたい、と思うことをしゃべる。それが真剣な発言だったら、足を引っ張るんじゃなく、議論する環境をみんなで前を向いて作っていくべきなんじゃないか。今は、何でもネガティブにとらえ、悪いところをクローズアップしてしまう。これは日本の悪いところだと思う。もっと素直にならないといけないし、もっと謙虚にならないといけないと思う。

 

 もちろんオレはサッカー選手。サッカー選手としてピッチの上で結果を出す、それが今の自分に一番求められていること。そこはもう最低条件だと感じている。結果を出さないと意味がない世界で生きている。何を言おうと、オレが試合に勝たないと、オレが点を取らないと、オレがゴールに絡まないと、はっきり言って説得力はなくなる。ただ、オレはまったく結果が出ていない時から、まわりにこう思う、と言い続けてきた。中学の時から「W杯で優勝する」と言っていた。その姿勢を変えたことは1度もない。今後もし結果が出なくても、W杯にケガをして出られなくなっても、オレは言い続ける。これがオレだから。「何を本田、エラそうに」と批判されても、構わない。そうやって生きてきた。それが本質だと思っている。誰にでも意見を言う権利があるということを、伝えておきたい。

「サッカー選手で、日本代表の本田だから言える」のではない。オレたちの世代も、みんなどんどん意見を言ってほしい。そして、みんなが聞く耳を持ってほしい。オレは今、そう言いたい。

 

 本田圭佑選手が言ったことを無駄にしないためにも、これを若い世代中心に読んでほしいと思った。そして、真剣に日本について考え、議論してみたい。ただ、世間では、真剣に政治についてココがおかしいんじゃないかと語ると、笑われる環境にあると思う。そんなこと言ってどうした?と心配される。

 今だ何も成し遂げておらず、なんの力のない自分が言ってもまったく説得力がないのは分かっている。けど、今日本が危機を迎えているのは感じる。なのに、周囲には危機感がない。その雰囲気をどうにかしたい気持ちはある。日本国民全体が、もっと危機感をもって、それぞれの立場、目的で日本を変えたいと思う必要があるんじゃないかと思う。 

  自分なりに「本物」とは何か考え、哲学を形成しなければならないと思う。

可愛らしい動物の画像は本物ではない。お菓子は本物ではない。TVは本物ではない。ファッションは本物ではない。営業は本物ではない。今の日本は、本物ではない。他から得た情報はバイアスがあり、本物ではない。
 世界遺産は、本物である。技術は本物である。自分で直接触れたものは本物である。
 僕にとって、加工されたもの・作られたもの・編集されたものは本物とは言えない。

 

 本物は、他に媚びないで独自の軸(信念)を持って長い時間を経ても価値が残り続けるもの(普遍的なもの?)生のもの、唯一無二なものと言えるかもしれない。 それはそのものしかあり得ないが、全世界で通用する、確立したもの? 自分でもよく分からないから、これからも考えなければならない。